「朝敵藩」の双璧とされた奥羽越列藩同盟の盟主である会津藩の会津若松や、北越戦争で薩長軍と敵対した越後長岡藩の長岡は、それぞれ廃藩置県当時には比較的大きい城下町であったにも拘らず、いわゆる「賊軍」であるとされ、県庁を置くことも永久に許されなかった。
1876年8月21日には、旧会津藩領(若松県)は福島県(中通り)や磐前県(浜通り)と合併させられ、県庁も会津若松から遠い福島に置かれ、県名も郡名を取った「信夫県」ではなく、都市名を取った「福島県」とされた。
長岡が位置する中越地方(旧古志郡他)も、当初は柏崎に県庁が置かれて柏崎県となったが、旧新潟県(下越地方)や相川県(佐渡島)と合併させられ、旧越後長岡藩の領内で、1843年に天領にされた港町の新潟に県庁が置かれ、県名も郡名を取った「蒲原県」ではなく、都市名を取った「新潟県」とされた。宮武が言う所の「永久不滅の賞罰的県名」の典型例である。
ただし、宮武の主張は、県の廃置分合の過程に関わる個々の事情への考慮が薄く、単純に「史実」として受け入れることはできないという指摘もある。
越後長岡藩の場合、同藩が廃止されたのは廃藩置県の際ではなく、これに先立つ1870年11月13日であり、藩財政の破綻により藩の側からの願い出たものであった。政府はこの願出を受け入れて、同藩を廃止して隣接する柏崎県に編入した。この柏崎県は、戊辰戦争に際して薩長軍が占領した桑名藩の飛地領の中心都市である柏崎に、既に1869年8月から設置されていたものである。廃藩置県の時点で「県」に替わるべき「長岡藩」は柏崎県の一部となって既に存在しておらず、長岡を忌避してわざわざ柏崎に県庁を移したわけでは必ずしもない。
一方、会津松平家が斗南藩に移封された後の会津地方は政府直轄とされ、1869年6月13日に会津若松に県庁が置かれて「若松県」と称した。若松県は廃藩置県後も存続し、上述の通り1876年8月21日に福島県に合併された。「永久に許されない」とする前説に拘らず、7年間にわたって会津若松は県庁所在地であった。
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なお福島藩も旧「朝敵藩」であるが、藩主の板倉家の三河重原藩移封後に同じく政府直轄となって、1869年8月27日に「福島県」が設置された。廃藩置県後、福島県は一旦「二本松県」となったが、数日で「福島県」に復している。
また、仙台県→宮城県、金沢県→石川県、宇和島県→神山県など改称例の多くは、実際は人心一新を望む県からの上申に政府が応えて実施されたものである。県令として赴任した者の多くが官軍側の出身であり、「人心一新」を必要としたのが旧「朝敵藩」や旧「曖昧藩」であったことに蓋然性はあるが、宮武説のように政府が「懲罰」として体系的にそれらの県の改称を主導したと断言することは難しい。
1876年に大規模合併が実施された県では、分割運動が起こって、分割された県も存在する。1888年末に香川県が愛媛県から分離されて以来は、都道府県の分割は実施されていない。
しかし、今もなお、都道府県の分割を求める声が、市町村長や都道府県知事やネット上などで見られる。ここでは、市町村長や都道府県知事が県の分割や分離を示唆している都道府県を挙げる。